「原発(原子力発電所・原子力)」って見たりきいたりしただけで、イヤだなぁ、って思うのは僕だけじゃないはず。僕が「原発がイヤ」だったのは、たぶん動物的な、生理的本能が大部分を占めていたと思う。その本能が怒りにかわったのは、昨日のこと。
昨日「六ヶ所村ラプソディー」というドキュメンタリー映画を観た。
六ヶ所再処理工場は、日本各地の原発からでる使用済み核燃料からプルトニウムとウランを抽出するための施設。国と電力会社は、このプルトニウムを再び燃 料に加工し、原発で使う計画を立てているという。でも、そのプルトニウムの使い道は現在なく、発電はまったく行われていない。
「核燃料サイクル事業」は原子力委員会が「原子力政策大綱」として政府に提出し、2005年10月に閣議決定された国策。でも、資源エネルギー庁の官僚 は言っている。 「核燃料サイクル事業は国策だが、その中のひとつの事業である再処理事業に関しては、民間企業の事業と認識している」と。
ってことは、放射性廃棄物の処理は他の産業廃棄物とおんなじ処理で、っていうことでしょう。
再処理工場から海へ放出される廃液は、原子力発電所からでる冷却水のようなものじゃない。放射能そのもの。それに、濃度に対しても規制がない。どれだけ の放射能が放出され、どんな影響があるのかがわからない。いま、六ヶ所再処理工場で行われていることは、それを確認するための「試験」ということになる。
その放射能が、ガス状で空へ、廃液で三陸の海に放出される。目の前にある、美しいふるさとの自慢である海が、放射能に汚れようとしている。それは、いずれこの地域だけの問題ではなくなるのだけど・・・。
漁業のひとたちはどうするんだ、そんな放射能で汚れた食物を食べた人たちはどうするんだ・・・っていう怒りはもちろんだ けど、僕が本当に怒っているのは、人間の能力の限界を超えた原子力を、科学技術だといって推し進めて「安心、安全、クリーンエネルギー」といってはばから ない人たちがいること。そんな人たちがいたら、原発(問題)は永遠に解決しない。
放射能は自然にかえらない。生態系の循環から外れるものをゴミとして放出している。
悲しい。放射能の後始末は誰にも、科学技術を用いてもどうすることもできないのに。
六ヶ所村ラプソディーを観て、自分の「無知」を恨んだ。そしてなぜか「終焉」という言葉が頭をよぎった。
美しいふるさとの、三陸の海の、日本の、世界の、地球の、「終焉」。世界は原発から手を引こうとしているのに、日本だけが強行推進国。核燃料サイクル事業は国策だけど、再処理は責任をもちません、と平気で言う国。
そんな国が「食育」「地産地消」もおなじ机上で言うんだから。放射能にまみれた空と海と土で、なにを食育しろってハナシだよね。
原発は行き過ぎたような気がする。行き過ぎた原子力行政、根拠のない、行き過ぎた原子力エネルギー安心・安全論。石油が 枯渇し、代替エネルギーは原子力だ、といつの間にか「原発は正義」となってしまった今、石油は枯渇しない。原発を動かすのにものすごい量の石油がいる。石 油が枯渇したら原発も止まる。代替エネルギーでもなんでもない。
動物的本能でイヤだといっていたけれど、僕の第六感はにぶっていなかったようだ。再処理工場ができてしまってから、操業が始まってしまってからでも僕にもできることはあるはず。
どうして反対なのか、もう少し勉強して、孫たちに素晴らしい人生が送れる環境を整えてあげよう。そして孫たちが大きくなったら「じいちゃん、あん時はかっこよかった」って言われたい。
こうでなけりゃ、僕の人生はかっこよく終われない。