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八木澤商店スタッフ紹介

河野通義

河野 通義(こうのみちよし)

 大正10年10月24日-平成20年4月17日
当時の八木澤商店(現八木澤商店)に子どもがなく、当主の弟の子であった通義氏が養子に入る。
 昭和14年東京の商業高校を卒業後、家業を継ぎ、清酒などを馬車をひいて販売する。
 昭和18年5月に許婚であった菅原律子と結婚。昭和19年に清酒製造業を廃業し、大正年間にはじまった味噌・醤油製造に従事。
 和35年に株式会社八木澤商店を設立、代表取締役に就任。
 昭和53年に酔仙酒造(株)代表取締会長に就任(〜平成13年10月)。
 (株)八木澤商店取締役会長。
4人の父であり、7人の孫と曾孫がいるやさしいおじいさま。平成20年4月17日肺炎のため死去。

 店主河野和義の父親でもある人。
多くを語らず、姿をみかけると、いつも本を読んでいる。2階の書庫は足の踏み場がなく、床が抜けそうなほどの本が。
静かで多くを語らないけれど、そんな物静かなおじいさまも、この土地のひとたちと、命と財産をかけて海を守ったという物語があります。
彼は息子(現店主)を呼んで、静かに語り始めました。
「この河野家、八木澤商店の財産をつくったのは、この俺だな。実はこんど、この財産を全部使わなければならなくなった。全部使っても、あるいは間に合わないかもしれない。相手があまりにも大きすぎる。しかし、それだけの大事ができた。俺はおまえに、俺とおふくろの面倒をみろとは言わない。だが、女房、子どものことは、お前の才覚でなんとかしろ。自分は生命をかけて、この開発に反対する。男の生きざまを、これから見せる。」

道は一つではない

昭和46年ごろ、海と山に抱かれた、普段は静かな陸前高田市は広田湾の埋め立て開発問題で大揺れに揺れていた。県の開発構想で目の前の広田湾を工業団地にするために埋め立てるという計画が浮上したのである。広田湾は牡蛎や海苔などの養殖をはじめ、魚介類が豊富に取れる豊かで美しい海である。

 猛反対する漁民を、多くの市民が支援した。支援団体のひとつ「広田湾埋め立て開発に反対する会」では、和義さんの父、河野通義さんが会長に就任、漁民と共に県に対して次々に質問状を提出し、反対運動を盛り上げていった。あらゆるタイプの「公害」が日本全国に広がっていった時代だった。
 今、当時の会報「美しい郷土」を読むと、市民たちにより、発展とは工業化することだけではないという意見がさまざまなかたちで展開されている。地方誌には通義さんのこんな文章が掲載されている。
― 反対意見の対案はないのかと聞かれるが、漁民から海を取り上げ、埋め立て臨海工業団地を作るだけが、市の進むべき唯一の道ではない。それ以外にも道はあるだろうから、みんなで考えようというのである ―
結局、県側のずさんな計画は、棚上げという形で凍結され、広田湾は漁民と市民で守られた。そして、進むべき道はひとつではなかったのだ。

(生活の絵本 1998年夏号より抜粋)

 彼は「目立つことをするな」といいます。たしかに、この埋め立て開発反対を行ったときも、先頭にたってシュプレヒコールをしたわけでもありません。ただ、いつもいうことは、「開発をやめさせたのは俺ではない。勝ったのは生活権をかけて闘った漁民だ。俺はそういう人たちを、本当の反対運動をする人を援護射撃しただけなんだ。運動の旗頭というのは、本当は黒子でなければいけないものだ。」
いつも静かなやさしい笑顔を絶やさないおじいちゃま。彼の思いを受け継いでいく曾孫たちが、美しい郷土を未来へも残してくれることでしょう。

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